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■2018年9月23日

二日目も快晴である!!
今年は台風の当たり年だけに、この時期に全て晴なのは奇跡的である。
今日は、島後から島前にフェリーで移動する。
東の島後が雄(陽)なら、西の島前は雌(陰)になる。
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島後の「爆裂火口」を通過する。ドーナツ状の火口が半分まるごと吹き飛んだ跡である。
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隠岐の島前は「西ノ島」「中ノ島」「知夫里(ちぶり)島」の三島が巨大なカルデ噴火口を形成している。
我々は、その内の「西ノ島」に上陸し、後醍醐天皇縁の地を訪れる。
そこは「黒木御所」といい、国体である天皇のいる場所が「御所」となる。
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後醍醐天皇が隠岐を脱出する時、世話になった島民に不思議な物を手渡している。
それはまるで隠岐の縮図のような形で、左が「愛染明王」、右がトンデモナイ物を象徴していた!!
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「焼火(たくひ)神社」も島前の「西ノ島」の山頂付近にある。
古代、湾に火の玉が三つ乱舞したことから名の由来となったが、重要なのは、この逸話が元になり、寺社の瓦屋に見かける「三巴紋」が生まれたことである!!
にもかかわらず、焼火神社の聖紋に双六の「五」に似た謎の紋があることだ。
もし四方を取った後、中央を取る意味であるなら、三礼三拍一礼を「籠神社」を筆頭に物部系の「諏訪大社」「熱田神宮」「伊雑宮」で行い、最後に「隠岐」を岩戸開きする意味と思われる。
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隠岐はやたらと「烏」が多い処で、案の定、烏天狗が「焼火神社」に保管されていた。
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まるでイングランドのような風景は、「摩天崖」といい、牛や馬が放たれている。
毎年、牛が切り立った崖から落ちる為、落下防止の策がしてある。
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牛と牛が戦う闘牛は日本全国6ヶ所にその伝統があるが、隠岐の「牛突き」は約800年の長い歴史を持つ日本最古の闘牛である。
元は、島流しになった後鳥羽天皇(上皇)を慰める意味だったとされるが、隠岐の牛は徐福が島に持ち込み、燔祭を捧げたことに由来すると思われる。
始皇帝も牛を燔祭に捧げていた証拠が残されているからである。
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「摩天崖」の次は、船に乗って「中ノ島」に移動し、後鳥羽天皇(上皇)由来の地を訪ねる。

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後鳥羽上皇は、承久3年(1221年)の「承久の乱」で、鎌倉幕府に反乱を企てたとして隠岐に島流しにされ、この地で亡くなったとされ、「和歌」の名手として知られた天皇だった。
その墓を守っているのが「村上家」で、その頭首の自宅が「資料館」になっており、まずそこを訪れることにした。

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立派な入口の上にある破風に「鴨」が舞うのは、京都の「加茂神社」の鴨族と縁があることを示唆するとみて間違いないだろう。
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水無瀬(みなせ)家との交流があるという村上家の当主は、48代目助九郎氏で、隠岐の名家である。
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村上家のある海士町は『ないものはない』を宣言している。
この不可解な言葉は、「無くてもよい」「大事なことはすべてここにある 」2重の意味をもち、まさに隠岐に全てが隠されている為、無いように見えるとも受け取れる意味深な宣言である。 
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隠岐の島前と島後と両方を結ぶ浅瀬で「瓢箪」を示し、瓢は「鉢」で箪は「皿」を表す為、「頭蓋骨に皿」となり「河童」を表す。
河童は「漢波羅(カンパラ)」と称する「陰陽師」の別称で、ユダヤ密教の「カバラ(カッバーラ)」の使い手の意味を持つ。
同じシンボルが「籠(この)神社」の奥宮「眞井神社」の境内の石碑に穿ってあり、隠岐と籠神社の深い関連を垣間見ることが出来る。
「五七の桐紋」が天皇家の表紋であり、よく知られる「菊花紋」は裏紋である。
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後鳥羽上皇の実質的な墓地「御火葬塚」の脇にあるのが「隠岐神社」で、創建は1940年(昭和15年)で、法皇の崩御700年に執り行われた「後鳥羽天皇七百年祭」の年(1939年)に完成した。

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「隠岐神社」には、京都で天皇帰還を待つ和歌の一族「冷泉家」が近年頻繁に訪れるのは、新しい天皇が預言された「ラストエンペラー」となるからであろう。
隠岐に来ない皇族で天皇になった者は一人もない。
つまり隠岐こそ「裏鬼門」に当たる。
「温羅(うら)」は鬼の名で「隠」も鬼を意味するからである。
飛鳥昭雄は、烏の指示の通り「隠岐神社」で「天之逆手」による三礼三拍一礼を行い、三上編集長、吉田議員も同じ方法にて「正式参拝」を行った結果、島前の岩戸開きも完成した!!
これで島後と島前で陰陽三度づつ三礼三拍一礼が行われた。

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1873年(明治6年)、法皇の御霊を大阪府三島郡島本町の「水無瀬神宮(みなせじんぐう)」に奉遷したため、1874年(明治7年)に後鳥羽院神社も取り払われ「御火葬塚」となった。
実は、岩戸開きを行った飛鳥昭雄は、父の仕事(サントリー山崎工場)の関係で、小学生に上がるまで三島郡島本町に住み、水無瀬神宮はすぐ近くにあり、そこの有名な湧き水を飲んでいた。
私は今回の件も含め偶然とは思わない。

この地に徐福が始皇帝から託された「契約の聖櫃アーク」の箱(下部)を運び入れ、隠岐を聖別した為、そこに「隠岐神社」が鎮座したのである。




by manaseden4 | 2019-01-02 07:18